「老いの空白」 鷲田清一著 ヨシミさんより

「老いの空白」鷲田清一
社会福祉士の資格取得のため、この夏高齢者施設で一カ月ほど実習をした。認知症などの理由で、歩行や会話、食事や排せつがひとりでは出来ない高齢者が100人ほど起居する大きな施設だった。わたしはこれまでに障害者の就労支援や、生活困窮者と呼ばれる人たちの暮らしに関するサポートの仕事をしてきた。こうした仕事が目指すことはほぼ全てにおいて「何かができるようになること」だった。働けるようになる、面接に行けるようになる、体調を整えて毎日決まった時間に起きられるようになる。公園で寝ていた人がアパートで暮らせるようになる。自助グループの力を得て依存症から回復する。引きこもっていた部屋から出られるようになる、信頼できる友達ができる…。そのたびに「支援者」たるわたしたちは、それができるようになった人とともに、できるようになった喜びを分かち合った。

しかし高齢者相手の仕事には、そのようなイメージを持つことができなかった。「お年寄りはどんなに頑張っても『できるようになること』よりは『できなくなること』が毎日どんどん増えていくと思います。そんな中で、皆さんは何を仕事のやりがいにしているのですか?」とわたしは実習生らしい無邪気さを遺憾なく発揮することにして、施設のあらゆる職員に聞いて回った。高齢者の支援とは、何を支援することなのか?何を目的にしているのか?その問いは子どもが発する「どうせ死ぬのに、なぜ生きているのか?」という問いと直結するものではないかと、内心ではビクビクしていた。しかし、そこから目を反らしたままで社会福祉士になることは大いなる欺瞞だ、とも思ったので、思ったことを直球で聞いて回った。その問いは「毎日赤の他人に性器や排せつ物を見られ、どろっとした食べ物を食べ、周りの人や自分が誰だか分からない状態になっても、自分は生きていたいのか」という問いでもあり「そういう状態の人たちに、社会福祉士はどう関わり何をすべきなのか」という問いでもあったと思う。
施設の中は、排せつ物と排せつ物を消毒する薬剤と、さっき配膳された食事の香りの交ざった匂いがする。人間が生きている空間は、本当はこんなにもなまなましい匂いがするものなのだろうかと、いつも同じ話を繰り返す老人との受け答えに慣れながら思った。そしてこの頃、相模原で多くの障害者が暮らす施設での殺人事件が起こった。
どの人にも価値がある、その人をありのままに受け入れましょう、違いを認め誰もが暮らしやすい社会に。みんなちがってみんないい…社会福祉の本を読むとこういうことが書いてある。小学校の道徳の教科書かと思ってしまう。でも世の中はそんな風になっていない。自分のことは自分で、人に迷惑をかけてはいけない、税金を払ってから文句を言え。マッチョな言動に対して、きれいごとで立ち向かうときの心もとなさといったらない。数ある社会福祉士の養成校は毎年「ウチから国家試験の合格者が○○名も出ました!」と宣伝しているが、どうしてそんなにたくさんの社会福祉士が輩出されながら社会が良くなっていく実感が全く持てないのか疑問に思う。
ならば社会福祉士なんてやめちまえと思えないのは、それでもそこに「何か」があるかもしれないという望みを捨てきれないという、往生際の悪さからなのだった。

そういうひとたちの多くが、じぶんたちよりさらに「不自由」なひとのもとへと介助ボランティアに出かけて行くのは(中略)じぶんたちのほうがまだ「できる」という気負いがあってのことではない。むしろ、じぶんたちより「できない」ひとの前で、「できる」ことにこだわって突っぱった生き方をしてきた頑ななじぶんをほどき、「世話をする―世話を受ける」という一方通行の関係を超えるような地平のなかに自分を放り込もうとおもうからだろう。(鷲田清一「老いの空白」岩波現代文庫,2015年)

わたしがいわゆる福祉に興味を持ったのは、20代後半に岐阜から名古屋の会社に転職したのとほぼ同じ頃だった。小さい頃から「誰に食わせてもらってると思ってるんだ」と言われるのがとにかく嫌で、一刻も早く誰にも養われずに済むように、自分で稼いで自分で食っていけるようになりたかった。働いて貯めたお金で念願のひとり暮らしを始めたが、この生活を維持していくためにはもっと多くの収入が必要だ。家も要る、貯金も要る…自立した自由な生活のためにはどんな苦労も厭わないと、給料のいい会社に替わったのだった。そして「ホームレス」と呼ばれている、家を持たずに野宿生活をしている人たちと出会ったのもこの時期だった。自分は1円でも多く稼ぎたいと思い、毎日早朝から深夜まで働いていた。しかしそうした生活の中でも、野宿をしながら暮らす人たちと話したり、怒られたりする時間の楽しさは、自分にとってかけがえのないものになっていった。「そんなに忙しいのに、よくボランティアなんてできるね」と言われたけれど、彼ら・彼女らとの交流の時が無ければ、日々の激務に耐えられなかったと思う。まさに助けられていたのは自分の方であり、「誰にも頼らずがむしゃらに働かなければ」と思っていた自分を揺るがされながら、ほどかれていくのを感じていたのだと思う。

「あれもこれもできない」ひとを前にして、じぶんがこれまで精一杯抑え込んできたじぶんのなかの「弱さ」と、(唇を噛みしめるのではなくて)もっと素直に向き合えるようになるからだろう。その意味で、介助ボランティアでは、いままでずっと「強く」あろうとしてきてしかも最後まで「強く」ありえなかったひとが「弱さ」をさらさずには生きてゆけない人によって支えられるという出来事、そういうかたちで「強さ」への強迫から放たれるという出来事が起こるともいえる。(同)

「老いの空白」では、「老い」や「弱さ」は個人を揺さぶるだけではなく、人間の生を「生産性」だけで評価する考え方や「自己決定と自己責任が可能な「強い」主体という概念を骨格にした現在の法と社会制度の再考をも深く促す(同)」ものだと述べられていた。そうだ、わたしが「福祉」に魅力を感じていたのはこういうことではなかったか、と思う。小説家の保坂和志さんが著書の中で「日常が芸術を説明するのではなく、芸術が日常を照らす」と言っていたが、福祉も同じだと思う。日常のなかに福祉があるのではなく、日常の「外」から・いまある社会の「外」から日常や社会を照らすもの、それが福祉なのではないか。「できること」ではなく「できないこと」からまなざすこと。「わかる」ことではなく「理解できないこと」への感受性を開いておくこと。何かを「する」ことではなく、ただそこに「ある」ことに重きを置くこと。同著には「老い」によって自分が「できなくなること」「意のままにならなくなること」を受け入れていくことが人としての「成熟」であると同時に、理解できないもの、役立たないとされているもの、なんだか分からないものたちが、分からないまま・そのままに存在できる社会が「成熟した社会」だと書かれていた。

一見むだとか、夢想だとか、非合理だとか、非現実だとかみえるものは、「この世界」にうまく位置づけようがないという意味で、「この世界」の欄外に放逐される。が、「この世界」がその構造の硬直によって破たんしかけているときに、その構造変換のエネルギーと知恵を供出しうるのは、こうした「この世界」の外部の感受性である。そこに貯えられた<反世界>のまなざしこそが、がちがちに凝り固まった融通のきかない「この世界」の関節を脱臼させ、世界をふたたび可塑的なもの、流動的なものへと戻し、それが結果として世界を編みなおすきっかけともなる。
こういうかたちで世界を別様にも表彰しうる意味の空間を開くということ、そのことがおそらく、世界が揺らいでいるときにもっとも必要なものなのだろう。(同)
「できなくなることばかりなのに、何がやりがいなんですか?」というわたしの質問は、「生産性」という、いまの社会の枠組みのなかでしか「生」をはかれないひとが、自分が理解できる枠の中だけで「老い」を理解しようとした結果なのかもしれない。

シャイな介護職員の人たちはこの質問に「うーん…なんでだろう?」と、素直に「分からない」と答え、でも笑顔で「面白いこともたくさんありますよ」と答えていた。「なぜあなたがそんな質問をするのか分からない」と言われたこともあった。
でもそれは、もしかするとわたしが「この世界」の「欄外」を理解しようとしていなかったからかもしれない。職員の人たちも、きっと本当に「わからない」のだと思う。それどころか、最も「わからない」思いを抱いているのは、ケアされている老人たち本人なのではないだろうか。食事や排せつを助け、脈絡のない話に耳を傾け、身体を支えて一緒に笑ったり怒ったりする。介護というのはそうした行為を通じて、「わからない」生活を「わからないまま」にまるごと共にすること―――ともに「ある」ことを目指し、引き受けるものなのかもしれないと感じた。

実習中、逆に職員の人たちからは「フリーライターなのに、なぜ社会福祉士になるの?」と聞かれた。福祉のことを専門に書いていきたいから、と答えていたが、「福祉のこと」とは何だろうと考える。
わたしがいま使っている言葉は「この世界」の言葉だけれども、「この世界」の言葉を使って、「この世界」の欄外にある価値を描き出していきたい。書くことで、人と社会の構造の両方に働きかけていく。それが自分にとってのソーシャルワーク実践だと考えている。

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